見渡す限りに広がる平原に、太公望は一人立ち尽くしていた。
傍らには幻で出来た己の亡骸がある。これが原始天尊の策だと見破った時点で、太公望はもはやこの結界の中にいる理由は無くなった。
しかし彼は打神鞭を握りしめたまま、微動だにしない。
待っているのだ、倒さなくてはならぬ者を。
全ての、始まりを。
「──既に、時代は変わろうとしております」
太公望の静かな声は、誰もいない平原に空しく響く。
しかし太公望は絶対の確信をもって、この結界の主へ語りかける。
「もう充分お役目は果たされた。この茶番も終わる時が来たのです」
『…相変わらずお主は生温い。それでは冷やすことも温めることも出来ぬじゃろうて』
背後に気配を感じて振り向けば、そこに原始天尊が佇んでいた。
太公望は封神計画の黒幕に笑みを向け、肩をすくめる。
「そのわしを封神計画の担い手に選んだのは誰だったかのう」
『ふぉっふぉっふぉ、儂であった』
端から見れば、他愛ない師弟の会話。
しかし彼らが背負うものは、時代という世界の可能性。
『しかしのう、太公望。お主も儂も、もう後には引けぬと分かっておろう。どちらかが封神されるまで、この戦いは終わりはせぬ』
「………」
『儂の千里眼は全てを見通しておる。太公望よ、本当は儂が憎くてたまらぬはずじゃ。話し合いなどではなく、戦いによって全てを終わらせたい──お主の目が全てを語っておる』
隠せたはずの感情を見透かす原始天尊の眼光に、太公望は息を飲む。古き仙人の前では太公望など生まれたばかりの赤子にも等しい。
この相手に勝てるのか。戦いではなく、話し合いで。
迷いのある太公望が、迷いもない原始天尊に。
(…わしが行おうとしていることは、全ての犠牲を無駄にする)
おそらく正しい行為でも、結末でもない。
それでも、きっと彼なら同じ選択をする。きっと今頃、同じように師と対峙しているだろう、彼。
天化なら、きっと。
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「っつ…!」
剣圧に押され、天化は尻餅をついた。
起きあがるよりも先に剣先を向けられ、身動きが出来ない。
「──私も気が長い方じゃないんだ。そろそろ諦めて死んでくれないか」
傷一つない道徳と打って変わって、天化は満身創痍で動けるのが不思議なくらいだ。さすがに数千年の差は大きい。
しかし天化は道徳を睨み付け、握ったままの莫邪で青の莫邪を払いのける。道徳が間を空けた隙に、莫邪を地に刺して立ち上がった。
「…だったら一思いに殺したらどうさ」
「せっかくお前の復讐ごっこに付き合ってあげてるのに、随分な言いぐさだね」
「っ、ごっこじゃねぇさ…!」
天化が莫邪を構えて道徳へ振り下ろすが、道徳は片手で受け止めてたやすく凪ぎ払う。そしてバランスを崩した天化の項めがけて、道徳は莫邪の柄を叩きつけた。
その衝撃は脳にまで響き、天化は再び地へと伏せる。そんな天化を見て、道徳は呆れた声を漏らした。
「力まかせに向かえば利用されるだけだって、何度言えば分かるんだ」
「…っコーチみてぇなこと言うんじゃねぇさ!」
「コーチみたいなって、コーチじゃないか」
そう言う道徳は道徳そのもので、青峯山を模した結界と相まって天化に錯覚を起こさせる。これはただの修行で、全てが夢だったのではないかと。
そんなはずはないのに。
でなければ、道徳が天化を見る目がこれほど冷ややかな訳がない。
「しかしこんなに歯ごたえがないとはね…。あの化け物のほうが余程手強かったよ」
「…青が…?」
「ああ、お前はアレにそんな名を付けていたんだったね」
起きあがろうとするが、先程のダメージがまだ残っているのか目眩が酷い。それでも背を向ける訳にはいかないと膝を付くが、道徳に蹴飛ばされて再び転がされることになる。
仰向けになった天化の腹を踏みつけ、道徳は真上から見下ろしながら話を続けた。
「アレはお前が来る前から住み着いていてね。何度殺そうと思ってもしぶとくて手を焼いていたんだ。殺せたのはお前のお陰だよ、天化」
「…、…が…っ」
莫邪で払いのけようとして、逆に莫邪を手から弾き落とされる。そして今度は天化の首を踏みつけてきた。
気道が潰れて呼吸が出来ない。必死で足掻くも道徳の身体はビクともしない。
「ずっと一匹で生きてきたアレにとって、お前は希望だった。それなのにお前は人間界へ行ってしまった。俺が殺しに行った時も、既に虫の息だったよ」
「…く…、…う…っ」
「───置き去りにされた気持ちがお前に理解出来るかい、天化」
三日月の夜。あの日、天化は怯える彼に何と言っただろう。
守ると、そう言ったのに。天化は人間界へと行ってしまった。
青を守れなかった。道徳から、守ることが出来なかった。
「アレが封神台に居るのかは分からないが、母と叔母の元へと行くがいい」
動揺する天化に道徳は侮蔑の眼差しを餞に、青の刃を振りかざす。
逃げようにも逃げられない。そして青を見捨てた己を愛していた人によって罰せられる。その甘い誘惑が天化の最後の灯火を吹き消そうとしていた。
しかし振り下ろされる瞬間、天化の脳裏に声が響く。
『もう師匠でもねぇ敵の言葉を、鵜呑みにしてどうするっつってんだ!』
天化は目が覚めたように横へ転がり、寸でのところで青の刃を避ける。近くに転がっていた莫邪を再度掴み直し、天化は道徳を見据えた。
もう目眩は治まった。
惑いも、ない。
睨む天化に、道徳は笑みを浮かべる。
修行の時によく見せた、好戦的な笑みだ。
「──そうこなくちゃ面白くない。しかし残念だ。強くなったお前を見れる日は来そうもない」
「んな事ねーさね。たっぷり見せつけてやるさ…今すぐにでも!」
天化の声を合図に、青と緑の刃が再び交わった。
道徳とは修行でも何度も応戦し、天化と同じ型であるはずなのに太刀筋がまったく読めない。武成王は身体が大きいだけに隙も多いが、道徳に隙という隙は見あたらない。
しかし隙はかならずあるはずだ。天化は道徳の刃をかわしながら、懸命に隙を探る。
そして天化は見つけた。道徳の隙を。
(ここさ──!)
天化は足を踏み込み、道徳の懐へ飛び込もうとした。
しかしその瞬間、またしても天化の脳裏に声が響いた。
『天化』
そしてそれは、武成王ではなく。
『隙を見つけたからってすぐに飛び込むのは、お前の悪いクセだね。特に実力が上の相手なら、誘っていると判断しないと』
これは。
この、声は。
『相手をよく見るんだ、天化。そうすれば、おのずと見えてくるものだ。お前なら出来るさ。お前は──私の自慢の弟子だからね』
「隙だらけだぞ、天化ァ!」
動揺した天化に道徳がすかさず隙を付いてくるが、身体が自然と太刀を防いでいく。
いや、自然ではない。そう、教え込まれたからだ。
『相手の剣を受けるんじゃない、流すんだ。そうそう、やれば出来るじゃないか、天化』
『こらこら、手元だけを見ていてもダメだ。戦いはスポーツじゃないからな。時には正々堂々とはいかないんだ』
『うん、いい攻撃だよ。え?だったら避けるな?だって痛いじゃないか』
『まだまだ半人前の天化を一人前にするのは誰だと思っているんだ』
青の刃を払う度に、声が響く。
暖かい、まるで日溜まりのような声が。
『天化』
「……天化?」
突如、糸が切れた人形のように膝を地に付けた天化を、道徳が呼ぶ。
しかし沈黙を続ける天化に業を煮やしたのか、背を向けた。
「…最後の猶予をあげよう。私が結界を解く方法が見つかるまで、せいぜい足掻いてみせろ」
そう言って立ち去る道徳を、天化は追えなかった。
青の刃でも侮蔑の眼差しや言葉よりも、天化を貫いたものがあったからだ。
偽りの武成王と同じだ。剣を交じ合えば、偽物と本物の区別などつく。
簡単なことだった。それなのに今の今まで気付かなかった。道徳に惑わされて、見えたはずのものが見えなくなっていた。
あれは、道徳だ。
天化が愛した、道徳そのものだ。
「……っの、アホコーチ…ッ!!」
全てを悟った天化は慟哭する。
道徳の違えた愛情の深さを、胸に抱いて。
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「青は藍より出でて、藍より青し」
草原の結界の中、太公望はゆっくりと口を開く。
「青が藍より青いように、弟子が師よりも秀でる。…原始天尊様の目的は、弟子を殺すことではない。むしろ弟子に師を殺させることにあった」
『………』
原始天尊は何も言わない。しかし、全てを知った太公望に古き仙人の反応など不要であった。
師を殺す役目を授けられた太公望には、真実を語る権利がある。
「原始天尊様が最初にお話した通り、封神計画は人間界と仙人界を分かつためのもの。──つまり黒幕である原始天尊様がわしに封神されることこそが、封神計画の真なる目的なのでしょう」
そのために、この賢き仙人は非道といえる手を使った。
太公望の家族を殺し、何万人という民を殺し、武成王の家族を殺し、幼い殷太子ですら道具にした。そうして太公望に原始天尊を殺す以外の逃げ道を奪っていった。
人間界だけにではない。
この仙人界にも、革命を起こすために。
『……結果を見れば、そうなるのかもしれぬ。だが、儂らは始めからそのつもりで動いていた訳ではない』
儂ら。原始天尊はそう言った。
それが崑崙山を指しているのではないと、太公望には分かった。
『儂らはただ光を欲した。果てなき天から儂は星を集め、あ奴は月を得た。そして次第に光は強まり、儂らが影で覆ったはずの醜い姿を照らし出した。──殺そうと思ったことなど、それこそ星の数ほどある』
「………」
『じゃが儂らには出来なかった。元より光を求めた儂らには。じゃからこそ、光に喰われることを望んだ。天を浄化し、月の糧となるために』
「それがこの世界への…わしや天化への償いとでも言うつもりかッ!!」
この古き仙人を殺して全てが元通りになるというなら、太公望は何度だって殺してやっただろう。しかし実際はこの仙人を殺したところで、太公望は新たな業を背負うだけだ。
原始天尊に人間界を掌握する意志など既にない。死による制裁は無意味。ならば生きて罪を償うべきだ。
それが別の業を生むことになったとしても。
太公望が原始天尊の星の一つだったように、原始天尊もまた太公望の星の一つなのだ。
だから憎らしい。だからこそ、殺せない。
「…なぜわしを封神計画の担い手などに選んだのですか。この結末こそ、原始天尊様が最も恐れたものだったでしょうに」
「………確かに、そうじゃろうな。しかし儂はお主を恨みはせぬよ、太公望。お主は、儂に新たな光を与えたのじゃ」
原始天尊の声と共に、場の景色が薄まっていく。
封神計画の本当の終演が、始まろうとしていた。
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「…ここでもない、か」
結界の綻びを探し回る道徳だが、一向に見つかる気配はない。
原始天尊なら完璧な結界を施すことも出来るだろうが、時間を稼ぐためだけの結界に手間をかけるはずがない。
おそらく綻びを一カ所に集め、一目で分からぬ様に細工してあるに違いない。
それを見抜けなければ、道徳はここから出られない。少なくとも封神計画が終わるまで、天化と二人きりだ。
道徳は苦笑せずにはいられない。原始天尊の元へ早く駆けつけねばと焦るのに、天化との勝負が楽しくて仕方ないのだ。
人間界に下りる前は心配するほど弱かったのに。今では道徳ですら無傷でいるのがやっとの状況。おそらく千年もしない内に、天化の実力は道徳にも届いただろうに。
本当に惜しい。
道徳が弱いばかりに、天化に師を殺させようというのだから。
なにが師の務めだ。なにが天化との約束だ。そんなものこじつけにすぎない。
ただ道徳が堪えられなかった。自分の中の獣を自覚することが、その獣と向き合うことが、そもそもの元凶である天化に憎しみすら抱いてしまうことが。
愛おしい。ただそう思うだけでよかったのに。
所詮、獣は獣にしか成れなかった。
けれど天化の中で生き続けるというのなら。
獣というのも、悪くない。
笑みを浮かべた道徳へ一陣の風が吹いた。
ふと、風に揺れても葉一枚落とさない木々に違和感を覚える。出来合いの結界なら不思議ではないが、何かが引っかかる。
そうだ。道徳は目撃していた。
この結界の中、たった一つだけ変化をもたらしていたものに。
「……どこまで意地が悪いんだ、あのジイさんは」
道徳はため息を吐いて、来た道を引き返す。
時間稼ぎはもう終わり。この戦いにも決着の時が来た。
「さて、どう出る?天化」
青は藍より出でて、藍より青し。
それを立証してくれないと、こっちはオチオチ死ねやしない。
道徳は微笑む。全てを背負い、全てを胸に秘めたまま。
清廉な仙人が一匹の獣に戻った瞬間だった。