「…ったく、いきなりなんだったんさ」
汗を拭いながら天化は辺りを見渡した。相変わらず周りは広大な大地が広がっていて、人の気配も全く感じない。
天化は太公望達と共に、崑崙山・玉虚宮へ乗り込んだはずだった。
しかし突如サイレンが鳴り響いたかと思えば、既に天化はこの場に立ち尽くしていた。
そこに大軍を引き連れて現れたのは、天化に助言を与え、今朝出立したはずの父・黄飛虎だった。
黄飛虎は天化と自分はもはや敵同士、もはや殺し合うしかないと告げ、いきなり天化へと襲いかかってきたのだ。始めは困惑した天化だったが、振り下ろされた棍棒を莫邪で受け止めた瞬間、すぐに彼が偽物だと分かった。
常識外れの腕っ節も気配も黄飛虎と酷似していたが、普段なら武器を通して伝わってくる猛々しい気迫が感じられない。だから天化は躊躇いもせず、苦戦の末に父を切り裂いた。
死体にすらならずに消えていく偽物を見送る間もなく、残った軍の者達が一斉に襲いかかってきた。
強さは偽の飛虎ほどではないが、なにしろ数が多い。再び苦戦しつつ勝ちきった天化にもたらされたものは、この孤独と無口な大地だけだった。
敵を全て倒してもこの場から出られない以上、もはや太公望達が助けてくれることを信じて待つしかないが、一向にやってくる気配はない。おそらく天化同様、様々な幻に手こずっているのだろう。
ならばやはり自分の力でなんとかするしかない。天化は適当に歩き始めたが、進んでも進んでもただ何もない大地が広がっているだけである。
鍛えられて無駄に体力があるだけに、すっかり見飽きてしまった景色にウンザリした天化は、思い切って走ってみることにした。
もはやヤケクソである。
「あー!もう敵でも宝貝でも何でも出て──へっ!?」
そう叫んだせいなのか、一定の距離を進んだからなのか突如ガラリと景色が変わり、天化は驚いて足を止めた。
殺伐とした大地の代わりに周辺に広がった景色は、天化にとって酷く見覚えのあるものだった。
「……青峯、山…」
黄家邸を離れた天化が育ち、封神計画が始まるまで寝食を行い、かつての師と共に過ごした思い出の地。
天化が覚えているそのままの姿が、ここにあった。
懐かしさに惹かれてフラリと足を踏み出したその時、突如現れた背後の気配に振り返って距離をとる。すかさず莫邪の刃を握って振り返るが、そこに佇んでいた人物に天化は目を見開いた。
正確には人物ではなく生物だったが、彼は黙ったまま天化を見据えている。まるで今朝の夢のように。
「せ…」
『お主と対峙するのは初めてになるのか、黄天化よ』
青の幻と入れ替わりで現れたのは、眉と髭が地に着く程に長く伸ばした老人だった。見るからに仙人の出で立ちの老人に、天化は警戒して睨みつける。
向けられた殺気に気付いているのかいないのか、老人は暢気にフォッフォッと笑い声を上げた。
『こうしておると、道徳をスカウトした時のことを思い出すのう。静かな闘気が瓜二つじゃわい』
「…あーたが原始天尊かい。俺っち達をこんな所に連れてきて、一人ずつ確実に潰していく算段さ?」
天化は笑みを浮かべたが、内心は動揺していた。原始天尊が相手でも無駄死にするつもりはサラサラ無いが、十二仙以上の実力となれば片腕を落とせるかも難しい。
気を引き締めるように莫邪を握り直す天化に、原始天尊はゆるりと首を横に振った。
『最期に孫弟子と会話するのも悪くはないと思っての。老いぼれの気紛れじゃよ』
「…最期って、どういうことさ」
『どうもこうもせぬよ。儂が封神されるか、太公望が封神されるか──どちらを選んでもこれが最期になるじゃろうて』
ザアッと二人の間を風が通り抜ける。偽りの世界のはずなのに、森の匂いは酷く生々しい。
黙って反応を窺う天化に構わず原始天尊は話を続ける。眉から覗く瞳は、封神計画の仕掛け人とは思えぬ程、日向のように温かい。
『天化よ、仲間も父も師にすらも刃を向けられるお主が、何があろうと決して斬らぬものはなんじゃ』
「……謎かけなら師叔とやるさ」
『謎かけではない。お主のありのまま思った答えを言えばいいのじゃ』
原始天尊の言葉を受け、天化は立てた親指で迷いなく己を指した。
「んなの、俺っち自身に決まってるさ。俺っちとは戦えねぇんだから」
自分に刃を向ければ、自分を育ててくれた全てに刃を向けることになる。もはや天化の中にしかいない存在を、どうして自ら殺さなくてはならないのか。
例え己であろうとも、決して誰にも天化を侮辱させない。天化の世界を壊させたりしない。
天化は天化自身のものだ。
この誇りだけは、決して誰にも汚させない。
天化の強き眼差しを見定めながら、原始天尊は己の髭を撫でた。
『……まるで矛と盾のようじゃのう。外見も扱い方も異なりながら、時には共闘し時には死闘を繰り広げ、そして戦いの中でしか己の存在を見い出せずにおる』
「…………」
『そして儂への答えもまた、矛盾しておる』
二人の間を再び風が吹き抜ける。その間、原始天尊と天化の視線は互いへと向けられていた。
原始天尊は全てを見抜いているというのか。天化は目を細めて、口にくわえていた木の枝を吐き出した。
「あーたは俺っちを笑いに来たんかい。家族も友達も殺されたってのに、親父の幻を遠慮なく斬って、これからあの人を殺そうとしている俺っちは、仙人サマには随分マヌケに見えてんさね」
『…確かにお主は愚かじゃよ、黄天化。誇りなどというもののために、自ら死を選んだお主の母達のようにのう』
「……そうさ。あーたに選ばされたことだったけど、最期は自分で選んだのさ。だから俺っちも、自分の最期は自分で決めんのさ」
天化が飛虎の息子として生を得た瞬間から、すでに封神計画に巻き込まれる運命だった。全ての喜びも全ての絶望も、天化が天化であったからこそ得られたものであるのなら、それを甘んじて受け入れよう。
しかしもう天化は昔の天化ではない。今の天化が新たな一歩を踏み出すには、身体にまとわりついた殻を振り払わなくてはならない。
そのためにも戦わなくてはならないのだ。誇りを守るために、過去と決別するために。
昔の天化が愛した、あの男と。
『……この矛盾の結末を儂が書く訳にはいかぬらしい。ならば儂は、お主のその言葉に最期を託そう』
原始天尊がそう言うと再び青の幻が現れる。幻は原始天尊が指をさした方角へと、一目散に駆けだしていった。
青が向かう先に見当がついた天化は、弾かれたように青の後を追いかけ、そのまま森の中へと姿を消した。
『…それでは、儂もそろそろ行くかのう』
愚かな愛弟子は愚かな孫弟子に任せ、賢き仙人は最後まで愚かに輝き続ける愛弟子の所へと向かった。
封神計画の本当の目的を、果たすために。
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あれは、とても綺麗な満月の日だった。
森の中で、酷く幼い侵入者を見つけたのは。
『ひっ、…っく、…こ、ちぃ…、…お、やじ…っ』
侵入者は、一月ほど前に人間界から連れてこられた子供だった。仙人の余興で家族から引き離されたことも知らず、師の前では寂しい顔など見せないくせに、暗い森の中で孤独の恐怖に泣いている。
『こーちぃ…っ』
助けを呼んでも、お前の師は来ちゃくれない。この仙人界はそういう所だ。人間界と違って、ここに温もりなんてものはどこにもない。
師に騙されていることも、師に突き放されたことも知らず、それでも師に助けを求める子供は酷く哀れで、酷く旨そうに見えた。
──いっその事、ここでその命を終わらせやろうか。俺なら苦しむ隙も無く、その頭を食いちぎる事も容易い。
そうすればお前は何も知ることもなく、何も悲しむこともない。代わりに喜ぶこともなくなるが、これからお前が歩く道を思えば微々たるものだ。
満月の日には妖怪仙人が出ると知っていただろうに、師の言いつけを破った子供が悪い。子供ではないから泣かないと言っていたくせに、その泣き声を聞きつけて俺のような奴に見つかってしまったじゃないか。
よりにもよって、何千年も肉を食っていない飢えた獣に。
『…ッ、だ、だれさ!』
殺気を放てば、流石に子供も傍観者の存在に気付いた。持っていた棍棒を構えてはいるが、その小さい身体は小刻みに震えている。
茂みから顔を出せば、その震えはさらに酷くなった。無理もない、本当に妖怪仙人が現れてしまったのだから。
『──ッ!』
目を細めて、殺気を強める。息を止める程の冷水ではなかったが、今までぬるま湯で過ごしてきた子供は堪えきれずにその場で尻餅を付いた。それでも流石はあの武成王の子か、武器を手放すことなく俺から目を逸らすこともない。
しかしこの子供は気付いているはずだ、俺と戦ったところでかなう相手ではないと。戦いの後に待つのは敗北ではなく、呆気ない死であることも。
さあ選ぶがいい、哀れな子よ。
俺に背を向けて破門にされ、人間界で家族と共に僅かな最期を過ごすか。
武器を捨てて死を受け入れ、俺の腹の中で共に永遠の時を過ごすか。
これが引き返せる最後の機会だ。
お前が信じたアレは、本当に信用出来るものなのか?
疑問を投げかける俺に、子供は震える身体を叱咤して懸命に立ち上がった。
その瞳に強大な敵に対する恐れはあれど、己の死に対する諦めはどこにもなかった。
『っ、お…俺っちは……俺っちは、崑崙青峯山は紫陽洞洞主・青虚道徳真君の弟子、黄天化さ!』
──愚かな子供だ。
逃げることも諦めることもせずに、決して勝てぬ相手に挑もうとしている。万が一生き延びたところで、お前は封神計画の人形にされるだけだというのに。
なんて哀れで、愚かな子だ。
しかし、その弱く小さな身体に確かな強さを抱いている。死と隣り合わせの危なっかしい、人には狂気にも思えるその信念を。
やはりこの子は強くなる。この汚れた世界には不似合いな、強く眩しい星になるだろう。
この俺でも喰らうことが出来ない程に、強く。
『魂魄が食いたきゃ俺っちと…っちょ、逃げるんさ!?』
ならば強くなるがいい。この獣の背を追って。
そして踏み外し、封神計画の人形に成り下がれ。
安心しろ、天化。
人形になったお前は、俺が殺してやる。
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懐かしい匂いに、道徳は目を開く。
顔を上げれば桃の花がハラハラと道徳に降りかかっていた。
見覚えのある桃の木だが、青峯山にしては空気が澄みすぎている。おそらく防御システムが作り出した仮想結界の中にいるのだろう。
身体を起こして立ち上がる。術をかけられている事もなく、懐の莫邪も取り上げられてはいない。
『お主はお主の光と共に生きよ』
──道徳の判断に任せたのか、道徳が原始天尊の元へ辿り着けないと思っているのか。近付いてくる気配を感じながら、道徳は莫邪を取り出した。
ガサリと音を立てて先に現れたのは、道徳が殺した獣だった。原始天尊が作った幻だと分かっているが、案内役をコレにするとは道徳への皮肉が窺える。
自嘲するしかない道徳に、幻は何も知らぬ顔をして消えた。同時に茂みから待ちわびた人物が現れる。
黄天化。道徳が破門した元弟子であり、封神計画を崩壊させた敵の一人。
そして道徳の行く手を防ぐ、最も邪魔な存在。けれど道徳は静かに笑みを浮かべ、随分殺気立った侵入者を歓迎した。
「やあ、天化。化け物の道案内は楽しかったかい」
「………お陰で殺る気マンマンさ」
「それは良かった。だが非常に残念なことに、私はお前の相手をする余裕が無くなった。悪いが、お前は後回しだ」
「んな事言って、俺っちが頷くとでも思ってんのかい」
天化の握る莫邪から新緑の刃が現れる。その刃が精神と比例して、力強い光を放っていた。
道徳もまた莫邪から群青の刃を出す。その光も天化の莫邪と決して劣らない眩しさだった。
「あーたの相手は俺っちだけさ。よそ見してっと痛い目見る事になるさ」
「生憎、それは無駄な忠告だよ。お前相手じゃ──よそ見なんてハンディにもならない」
「……ッ」
殺気を制御せずに放てば、その威圧感に天化が息を飲む。いくら仙人界でも異例の早さで強くなったとはいえ、たった十年修行した道士に道徳が負けるはずがない。それは今だ父を越えていない天化も分かっているはずだ。
まだ莫邪を構えてもいない道徳に、天化はギッと睨むと莫邪を構える。その眼差しには強大な敵に対する恐れはあれど、己の死に対する諦めはどこにもなかった。
あの時と、同じように。
「へッ…ハンディなんてこっちから願い下げさ!俺っちは武成王の息子、黄天化!勝負するさ、クソ仙人!」
「……なかなか言うじゃないか、クソガキ天化」
手加減はしてやろうと思っていたが、予定は変更だ。始めから全力でいかせてもらう。
それもまた天化自身が望んだ結果だ。道徳が何度立ち止まらせても、天化は険しい道しか選ぼうとはしなかった。
だから道徳は天化を奈落へ落とした。誇りを踏みにじり、世界を壊した。それでも天化が這い上がってくると分かっていたからだ。
そして天化は道徳の前に現れた。道徳を倒すために、天化の誇りのために。
これが最後の選択だ、強き子よ。
道徳に封神され、亡き家族の元へと旅立つか。
道徳を封神し、その屍を越えて強さを得るか。
正に命がけだ。その上、今の天化が道徳を倒せる可能性など無いに等しい。
しかし己に不利な状況であればある程、天化という戦士は強くなる。相手が強大な敵であれば、尚更。
その敵が自分であることを、道徳は誇りに思う。
道徳は目を細めて、ゆっくりと莫邪を構えた。
「───さあ、始めようか」
誇りを賭けた戦いの幕開けを、桃の木は静かに見守る。
ハラハラと、涙を散らしながら。